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VOL.293『健康意識が高く、長生きした戦国武将』 [生活]

◆戦国時代の武士
 戦国時代の人は寿命が短かったのでしょうか?戦国時代は1467年の応仁の乱から1568年織田信長の上洛までとされています。応仁の乱以降、室町幕府の権威は失われ、世の中は乱れに乱れた時代になりました。平安時代の中期から室町時代にかけては様々な災害が発生し、大飢饉や疫病(感染症)が続いて餓死しなかった人でも疫病によって死んでいく悲惨な事態が全国的に続きました。
 社会の秩序が崩壊する中で、各地に現れたのが武力・知力に優れ、人間的に魅力ある武将たちです。織田信長が舞ったことで有名になった『人間50年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり』と言う敦盛の一節があります。織田信長は48歳で亡くなりました。当時の平均寿命は、武士が42歳ほどで、庶民が30歳くらいでした。戦国の武士は戦いの日々を過ごすことで庶民より寿命が短かっただろうと思われますが、武士の方が一般的に栄養や医療の面で恵まれていたようです。

◆織田信長と徳川家康
 その頃日本に30年以上も滞在していたルイス・フロイスによれば、織田信長は中位の背丈で華奢な体つきをしており、声は少し高くよく通る声だったそうです。アフリカ系の宣教師であるフロイスを見た信長は肌が黒いので墨を塗っていると思い、体を洗わせたそうです。フロイスが地球儀を見せて地球が丸いことを説明すると、信長はすぐに理解し、外国の情勢を話すように求めたといいます。性格は名誉を重んじ、正義において厳しく、戦いを好み、侮辱を許さず、決断が速く、尊大で、他の戦国武将を軽蔑していたそうです。桶狭間の戦いの前には、焼き味噌をご飯にのせて湯をかけ、立ったまま掻き込んでから出陣したそうです。
 そんな信長は日頃、早起きで睡眠時間は4〜6時間と短く、酒はあまり飲まず、月に4〜5回ほどご馳走を食べる機会がありましたが、普段は粗食で肉や魚をあまり食べませんでした。その方が胃腸がスッキリすると言って、好きなものでも食べ過ぎずに残すようにしていました。また、綺麗好きで家臣には入浴を勧め、用を足した後には下帯をほどいて衣類を振り臭気を除いてから下帯を締めなおすように細かく指示したそうです。
 一方、徳川家康は、最先端の医学書や薬学書を読み、医師を招いて議論するような健康オタクでした。家康に特に影響を与えたのが天海和尚です。天海は福島県で生まれ、家康に重んじられて107歳まで生きたと言われています。天海が家康に長生きの秘訣として伝えたのが発酵食品と粗食でした。粗食と言っても粗末な食事という意味ではありません。新鮮な食材を使いあまり手を加えず、量を少なく制限するという意味でした。
 ある年の冬、信長から家康に立派な桃が贈られてきました。桃の旬は初夏です。家康は信長の凄さを褒め称えましたが、季節外れの食材は体に良くないと考えていた家康は、桃には手をつけずに家臣に与えたそうです。天海は野菜や果物に含まれるビタミンやミネラルなどの栄養は旬の時期に最も多く、季節外になると急速に失われることを知っていました。特に家康は腐敗した食材には用心していたそうです。その頃の武士は陣中食として干飯を食べていました。焼いた米を数日間天日干しした保存食で、それを湯に浸し戻して食べるのです。それに狩りで捕らえた野鳥を焼き鳥にして食べました。肉は血管を丈夫にして筋肉がつきます。肉の中でも脂肪が少なく、タンパク質が豊富な鳥肉は健康的でした。健康に注意していた家康は73歳で生涯を閉じました。家康に仕えた大久保彦左衛門も家康を真似て質素な食事で規則正しい生活をしたので79歳まで生きました。

◆いつの時代にも通じる健康法
 戦国時代の武将は戦いの日々の中、いつ命を落とすやもしれないという不安で、常に神経をすり減らした生活の中で生きていました。大酒を飲んでいた武将は脳卒中で早死にしています。豊臣秀吉はストレス性の胃ガンだったと言われています。一方、健康を意識して普段から粗食だった武将は当時としては長生きしたようです。暴飲暴食を避け、規則正しく生活することはいつの時代にも通じる健康法であるようです。


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