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VOL.244『甘味が日本とイギリスの食生活を変えた?』 [生活]

◆ 食べること
 私たちが毎日何かを食べることは生命維持に必要な行為です。現代では『食べること』は楽しみであり、快楽でもありますが、縄文時代や弥生時代には、ただ生きるためのものでした。平安時代に王朝文化を築いた平安貴族でも食材のほとんどは生か干物の魚介類や鶏肉などの動物性タンパク質で、植物性のものは少なく唐菓子や木の実など味付けをして美味しくするという料理法の概念はありませんでした。日常的に食物を加熱して食べるようになったのは室町時代以降のことです。
 ヨーロッパでも19世紀頃までは空腹になったから食べるという感覚だったようです。食べることを楽しみ、喜びに変わったのは小麦や米などのデンプンを大量に栽培できるようになり、カリブ海地域にサトウキビの大規模農場を作り、安価な砂糖を庶民も入手できるようになってからです。

◆ 甘味の魅力
 中世ヨーロッパでは食事は昼と夜の2食で、15世紀に朝食が加わって3食となりました。そして19世紀頃までは昼食が主でしたので、昼食をディナーと呼びました。現在でもヨーロッパでは昼食を豪華にしています。
 日本では、鎌倉時代まで武士も農民も朝食と夕食の2食でした。江戸時代になって庶民も3食になったのですが、これは1657年の明暦の大火がきっかけとなったと言われています。死者は3万人とも10万人とも言われ、日本史上最悪の大火災でした。そこからの復興のために幕府は全国から大工や職人を集め、朝から晩まで働かせるために1日に3食与えたというのです。これにより1日3食が広く人々に浸透していき、昼食は軽くすませるのが一般的になりました。
 江戸時代の日本では80%の人々が農民でしたが、米は年貢として納めるもので自分たちが食べる食料ではありませんでした。一方、江戸では幕府が配分した年貢米を武士の多くが売って現金に換えていました。そのため江戸市中には米が豊富に出回り、江戸に集められた職人や大工の食事は米が中心となっていました。米の飯は短時間で腹ごしらえができ、職人を働かせるには好都合だったのです。職人たちは寿司や天ぷら、漬物とご飯、麺類などファストフードのように街角で食していました。
 18〜19世紀初期のイギリスでは多くの農民が働く場を求めて都市に移り住みました。当時のイギリスの産業は家族単位の小規模なマニュファクチュアが中心でしたが、新たに都市の住民となった元農民という多数の労働力を得て、工業製品の大量生産が可能となりました。それに伴い、労働で疲れた体で簡単に作れる食事が工夫されるようになり、その中心となったのが砂糖でした。ヨーロッパにおける砂糖の消費量は年々増加し、特にイギリス人の食生活は砂糖づけとなりました。砂糖をたっぷり入れた紅茶・ジャムの果物の砂糖煮・冷肉・甘い小麦のパンなど、工場労働者はこの砂糖過剰な食事を歓迎しました。砂糖たっぷりの紅茶を飲むことでブルジョアの一員であると考え、毎日の甘い食事に満足していました。砂糖は短い休憩時間で疲労を回復させる魔法の食べ物でした。疲労感がなくなり、空腹感も収まる、これがイギリスでの産業革命のきっかけともなりました。その後、イギリス特有の砂糖入りの食品(紅茶とビスケットやコーヒーとジャム付きのパンなど)が開発され、都市住民の食生活を根本から変えていきました。当時のヨーロッパにおける砂糖は健康食品だったのです。

◆ 甘味(糖質)の食生活
 同時代の日本でも米の甘みの美味に職人たちは江戸で働く幸福を感じ、米と塩辛い漬物は至福の美味となりました。これら砂糖や米は労働者や職人に麻薬的に作用し、働くために甘味(糖質)を欲するののか、甘味が欲しくて働くのかわからなくなる、このような環境の継続がその後の人間に糖質を愛する食生活として世界中に拡大しました。同じ時期に地球の反対側に暮らすイギリス人と日本人に偶然にも食生活の大変革があったのです。

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