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VOL.281『日本人は平安時代から健康意識を持っていた』 [健康]

◆梶原性全の『頓医抄』
 鎌倉時代に武家出身の僧だった梶原性全(かじわらしょうぜん)は中国大陸の医学書を参考に50巻の医学書『頓医抄(とんいしょう)』をまとめました。この医学書の特徴は多くの人々の助けとなるように和文やカタカナで書かれていることで、平安時代に書かれた『医心方』が漢字で書かれていたのとは対照的です。
 頓医抄には中国大陸で150年前に書かれた人体解剖図を参考にした詳細な人体解剖図が載っています。その目的は、病気や体の不調が目に見えない神仏や怨霊のせいではないことや、病気を知るために体の仕組みを正確に理解することでした。そして日本人のために人体解剖図を描き、病気の原因を突き止めようとしたのでした。

◆体内に住む虫
 昔、お腹には密告者が住んでいると言われていました。子供の夜泣きや癇癪を「疳の虫が起きる」と言ったり「腹の虫が治まらない」「虫の知らせ」「虫が好かない」など、体や心を虫で表現する言葉が数多くあります。古来中国大陸では、体内に「三尸(さんし)の虫」と呼ばれる3匹の虫が住んでいるという思想がありました。三尸の虫とは庚申の日、人が眠っている間に天に昇って神様にその人の悪事を告げ口する虫で、それが神様の怒りに触れると寿命が短くなると考えられていたので、虫に告げ口されないように人々は知恵を絞ったと言います。庚申の日の夜には皆で経を唱え、食事をし、遊び、おしゃべりをして眠らずに夜を明かしました。この風習が鎌倉時代に広がり、江戸時代には庚申待(こうしんまち)と呼ばれて盛んに行われました。
 体内の虫が原因とされる病気の1つに赤痢がありました。赤痢は細菌やアメーバ原虫による感染症で、中国大陸から日本に持ち込まれました。天然痘などによる疾病や大規模な飢饉の後、体力が落ちると赤痢に感染してしまったそうです。奈良時代には麻疹が流行したので続いて赤痢が発生するから気をつけるようにという命令が太政大臣から発布されたという記録があります。赤痢の主症状は下痢で、そこに血や膿が混ざり込み赤くなることから赤痢と呼ばれました。赤痢に汚染された水や食物、食器などから感染します。日本国内での患者数は1960年代まで10万人を超えていましたが、1897年に日本人の志賀潔が赤痢菌を発見し、今では抗生物質によって根治できます。
 体内の虫を退治するために古くから海藻の一種やザクロの根を煎じて飲ませたり、ヘビトンボの幼虫やアカゲザルを焼いて食べさせるなどの治療が行われましたが効果はありませんでした。明治時代に発売された虫下し薬の広告には疳の虫や夜泣きの虫の姿(想像図)が描かれていました。疳の虫は腕の生えたタツノオトシゴのような姿で、夜泣きの虫は犬とミミズが合わさったような姿でした。明治時代には奇応丸という漢方薬も使用されました。主成分は熊の胆嚢で、虫下しではなく神経の興奮を鎮め、お腹の痛みを和らげる効果がありました。奇応丸は室町時代に奈良の東大寺で太鼓の修理をした際、太鼓の中から製法が記載されたものが見つかっています。中国大陸には存在しないもので、日本で独自に開発されたと考えられています。

◆日本人の健康意識
 奈良時代にはお茶が広まりました。鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には3代将軍源実朝の二日酔いをお茶で治したという記録があります。この頃にはすでに健康の基盤として肝臓・心臓・肺・腎臓・膵臓がバランス良く働いていると良いとされ、それぞれの臓器に対応した味を持つ食べ物を摂取することが良いとされました。日本人は基本的には苦いものを食べませんでしたが、この頃から苦いお茶を飲む効果が知られるようになりました。これは陰陽五行説に基づいたもので、宇宙の発生、自然の循環、人体の仕組みなど、あらゆる現象を説明した最先端の学問でした。『病草紙』には今でいう歯周病が書かれています。病草紙によれば食事は一汁三菜に小魚を加える、獣肉を食べることで歯周病となるとのことです。平安時代の記述では寄生虫の感染による病気がほとんどで『今昔物語』には13〜14mのサナダムシが出たとの記録があります。日本人にはこの頃から健康の意識があったようです。

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