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VOL.291『明治政府が行った感染症対策』 [健康]

◆漢方医学から西洋医学へ
 1868年、明治政府は西洋を手本とする近代化政策に着手し、医学においても西洋医学を取り入れました。まず薬学が最も進んでいたドイツに重点を置き、1871年にはドイツ人の教授を迎え、ドイツ語だけを用いる西洋医学の教育を開始しました。これにより、医師は西洋医学をドイツ語で書くことが習慣となったのです。
 1875年には医師国家試験が始まり、その3年後にはほとんどの府県で医学校を備えた公立病院が設置されました。この時点で正式に西洋医学を学んで国家試験に合格した医師は5200人で、無試験で漢方医を名乗る人は2万3000人もおり、圧倒的に漢方医の方が多かったのですが、1895年には漢方医は医療を行うことができなくなりました。1909年には当世医者気質としてフロックコートに赤いネクタイを締め、縞模様のズボンをはいて、八字ヒゲを立て、往診鞄を下げた医師の姿がよく見られるようになりました。往診鞄には聴診器・体温計・注射器などが入っていました。白衣を着て診察するようになったのは大正時代に入ってからのことです。

◆感染症の大流行
 明治政府が健康国家建設の指針として掲げたのが感染症(伝染病)対策と食生活の改善でした。1886年には日本人の総人口が3850万人で、94万人が感染症で亡くなりました。死因はコレラの大流行で11万人、これに天然痘・腸チフス・赤痢が加わり18万人が亡くなりました。次いで栄養不足や生後の発達障害が14万人、他に神経の病気や結核などの呼吸器疾患、伝染性の胃腸炎が続きました。明治から大正時代にかけて生まれた子供は、100人中15人ほどが1歳未満で死亡しました。
 大正時代の1918年から1920年には、スペイン風邪と呼ばれるインフルエンザウイルス肺炎が大流行し、当時の世界の人口20億人のうち6億人が感染しました。日本では全人口の40%にあたる2300万人が発症し、38万人が死亡しました。子供や高齢者だけでなく20〜30代の若者の死亡率も高かったのがスペイン風邪の特徴でした。
 1886年のコレラの大流行を受けて明治政府は、西洋諸国に習って伝染病予防、海港検疫法、汚染掃除法などを成立させました。1898年には汚染された水を使うことで感染が拡大するコレラ・赤痢・腸チフスを止めるために一部地域で通水を始め、1911年には東京市全域に上水道が完備されました。日本人は古代から清潔好きで、穢れ(けがれ)を水で洗い清めるという考え方を持っています。現在でも神社に行くとお参りをする前に手を洗って口を漱ぐのはその習わしです。このように日常生活でも清潔を常に心がけることは、江戸時代から入浴や養生法として重視されてきました。現在も新型コロナウイルスの感染症がヨーロッパ諸国やアメリカで大流行し、インドや南アメリカ、アフリカにも広がっていますが、日本で新型コロナウイルスの感染症が世界的に見て少ないのは、手を洗うという習慣が日本人の生活の中で根付いていることも理由の一つと言えるでしょう。

◆ワクチンと治療薬の開発が鍵
 明治政府は健康増進を目的にいろいろな政策をとりました。1日のカロリー摂取量を3000キロカロリーとし、これは現在もあまり変わっていません。他に肉類や脂肪を摂取して血管を強くし、抵抗力をつけて感染症を防ぎ、運動量を減らしました。これらはあまり効果がありませんでした。効果があったのは予防ワクチンや治療薬の開発、病気の検査法でした。そして有効な治療法が相次いで発見されたのです。
 感染症との闘いに勝利できるのは、ワクチンによる予防と治療薬の開発です。感染した人が回復して抗体が形成されるのを待つのでは時間がかかりすぎます。既存の治療薬の効果がある程度報告されてはいますが、完全ではなく、インフルエンザワクチンの効果も100%ではありません。また、新型コロナウイルスの遺伝子が変異すれば効果は期待できません。ワクチンや治療薬の開発以外、この感染症の収束は望めないでしょう。

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